帰ってきた頭痛。夏期休暇中は頭痛にならなかったのに、仕事がはじまり早々に頭痛。緊張性のものなんだろうな、とあらためて実感。
昔は頭が痛くなる意味すら分からず、母親が頭痛もちでしょっちゅう「頭いたい」と言っていたのを「なんで頭なんて痛くなるんだ」と思っていたのに。
わたしも立派な頭痛もちになりました。血は争えない。
最近はずっと猫のことばかり考えてます。
外を歩くときは猫をさがしてるし、通勤の電車のなかで猫(おもにベンガル)の画像検索してるし、お昼休み中は猫ブログ読んだりしてるし、夜寝る前はパールの写真や動画を延々と見たりしてます。
で、やっぱりパールがいちばんかわいいな、なんて思いながら眠りについてます。
かわいいっていうか、ただかわいいってだけじゃなくて、むかつく顔してるところが好き。生意気な顔してる猫。なんとも言えないいい表情をみせるんです。
わたしの一目惚れでした。
夫を見ていると、ペット亡き後の心情や行動って人によってこうも違うものかと考えさせられます。夫はパールの写真のみならず、猫全般の写真を見ることを避けてます。いっぽうわたしは、パールが亡くなった翌日からパールの写真を見続けてます。人によって違うのは当たり前なんだけど、こうも違うものなんだな、と。
わたしは実家でも猫を飼っていたので、子供の頃から今までに、パールを含めて4匹の猫たちとの別れを経験してます。
わたしが生まれる前からいた三毛猫のミー
三毛猫ミーが亡くなってからきた白猫のシロ
白猫シロが亡くなってからきたキジトラのミー
(猫といえば ミー と名付ける祖父...)
そしてパール
自分の意思で自分で責任をもって飼ったのはパールがはじめてだし、こんなに若くして苦しんで亡くなったのもパールがはじめて、最期を看取ったのもパールがはじめてだから特別な思い入れはあります。でも、どの子も好きだったし、それぞれ思い出がある。悲しさに差はないです。
ただ、幼い頃からの経験で生き物と暮らすことがどういうことか、必ず別れがくるものだということを、わりと冷静に受け入れていて、割りきっている部分があるのかもしれません。
夫にとってのパールは、はじめて飼った猫で、はじめて飼ったペットでした。そのあたりも関係してるのかな。
わたしのほうが身近な生き物の死に慣れているとか、そういう単純な話ではなくて(そまそも慣れることなんて絶対にない)、死への向き合い方に正解も不正解もなく、それぞれのやり方を探しつつ、それぞれに必要な時間をかけて向き合えばいい、そう思うし、そうする他にない。
今日はクリーム色のきれいな猫に出会いました。近寄ったら「にゃあ」ってないて、わたしは満足。猫を失った寂しさは猫でしかうめられない。そういうタイプのようです。

